勉強の哲学―来たるべきバカのために
アイロニーを突き詰めると決断できなくなる。
まったく無目的に誰かに影響されて決断すると、今度は決断する中身がなくなり、決断する個人もなくなる。
自分の嗜好で決断を仮固定するが、しかし一方で決断することを保留し、つねに比較し続けることが重要である。
ユーモアを使いある程度の選択肢を残しておきつつ、自分の嗜好で仮固定し、しかし仮固定のなかにもアイロニーの視点を持つ。
仏教の中道や、自らを灯火とせよという教えとも通じる。
コロナ禍では、コロナ脳と反ワクチンの終わることがない二項対立がずっと続いていたようにも感じる。
私自身の嗜好は、コロナ脳に傾く。
それはコロナを実際に診るという嗜好がそうさせるのかもしれない。
また科学的な思考を絶対化する嗜好もそうさせるのかもしれない。
嗜好は今までの出会いで形作られた私の個性でもある。
ただ、それでも比較をし続けることが重要なのだろう。
自分のコロナ脳という立場をメタ認知し批判し、比較することも続けたい。
目覚めるという表現は決断の絶対化ではないか
決断をすること自体が目的となっていないか
目覚めた人は決断をした時点で学習することをやめてしまわないか
一般書は玉石混交
勉強せずに放言をしても一般書となる。
アカデミックな分野とつながっているかどうか
専門分野を学ぶことは難しい。
信頼できる入門書をいくつか読んでそのうえで、教科書を辞書的に使用する。
専門領域でないものが一般書やyoutubeで目覚めるというのは自分の経験を絶対化していないか。
勉強することでその分野の専門用語で自分が揺さぶられ新たなバカになる
改めて勉強というものは自分を揺さぶるために未知の言語体系をインストールするものなのだ
筆者はSF小説のように未知の分野の言語体系を眺めるようにと言っていたが至言だと思う。
私も含めて悪性のバカになっていないか?
悪性のバカとは一般書をかじっただけで自分の狭い世界で専門用語を理解したつもりになることと、ここでは定義する。
自省だが、コロナ禍で一般書やYou-tube、Twitterなどを聞きかじった知識でワクチンやCOVID-19をわかったつもりになり真の専門家を冒涜するという現象は悪性のバカだと思う。
しかし、私自身が同じ誤謬になる危険もある。
例えば、経済の分野を聞きかじっただけで分かった気になっていないか。
経済を勉強しようと思えば入門書をいくつか読んでさらに、教科書を辞書的に読んで、そしてアカデミックな世界で信頼される専門家の意見を聞いて、ようやく理解できる。
私も医学の世界で同様の過程を長い年月をかけてきた。
もちろん、勉強に再現はないしどこかで仮固定をしなければいけない。
縦軸であるアイロニーも横軸であるユーモアも際限はないのだ。
それでも信頼できる書物を読み、いかがわしい一般書は信頼せず、常に比較し考え続けるという姿勢は可能かもしれない。