コミュニティホスピタリスト@奈良 

市立奈良病院総合診療科の森川暢が管理しているブログです。GIMと家庭医療を融合させ、地域医療に貢献するコミュニティホスピタリストを目指しています!!!

ジェネシャリスト宣言を読んで

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岩田先生のジェネシャリスト宣言を読んだ。
ずっと、以前から気になっていたのだが買えずにいた。
なんだか、ジェネラリスト不要論のような印象もあり買えずにいた。
僕は「病院総合医」という立場でいろんな活動をしているが、その立場が危うくなるような怖さがあったのかもしれない。
ただ、いつかは読もうと思っていたところ、衝動的に買ってしまい一気に読んでしまった。
機が熟したのだろう。。
いわゆる「ジェネラリスト」である尾藤先生の解説が絶妙で、理解に大いに役に立った。
正確に言えば、抵抗なく理解出来るようになったのだと思う。
確かに、非常に優れたスペシャリストはジェネシャリスト的である。これは間違いない。
僕が尊敬するリウマトロジーの先生は、専門分野に関して僕が想像もつかない高みにいらっしゃる。
その高みは見当もつかないほど高いのだが、知識や経験にとどまらず医師としての姿勢や未知への探求心、教育者としての在り方など多くのものを学んだ。
そして、彼はジェネラリストとしての裾野も広く自分が彼に患者を紹介するときにはジェネラリストとしての自分の未熟さを痛感したこともあった。
確かに、岩田先生がおっしゃる通りジェネシャリストは現前するのだ。
では、ジェネラリストはどうか?
46章 :患者と患者以外の二言論という章に書かれた家庭医療学に関する岩田先生の論説に納得が出来なかった。
一言で言えば、患者中心の医療という「言葉」は、患者に特別な地位と立場を与えるようで嫌いであるという論説である。
岩田先生の御指摘のように、立場でしか語れないのは日本の医師の弱さだというのはまさにその通りである。
多分僕も「病院総合医」という立場から抜け出せないので、こんなことを思うのかもしれない。
しかし、それでも納得が出来なかった。
個人的な体験と経歴で恐縮だが、そもそも僕は家庭医療学にはこれっぽっちも興味がなかった。
後期研修は総合内科的な研修を行っていて、とにかく目の前のことで精いっぱいだったと思う。
家庭医療学は僕には関係がないものだと考えていた。
それでも、未熟さもあったと思うが患者や家族との関係の中で不全感を感じることもあった。
そして、その不全感の正体を言語化できずにいた。
そんな時に、6年目から若手の家庭医の先生方と院外活動を一緒に行う機会を得たり、同僚で家庭医療研修を終えた総合内科医と働くことになったり、家庭医療学をベースに総合内科医として病院で働くロールモデルの存在を知り、家庭医療学の印象が変わった。
身もふたもないことを言えば、ただ医師として彼らは尊敬できた。
そして病棟でも家庭医療学を実践できることを知った。
彼らが大切にする家庭医療学とは何かを独学してきたのがこの数年だったように思う。
その過程で「病院×家庭医療」という雑誌の特集も編集もさせて頂いた。
家庭医療学を勉強するうちに私が不全感を抱いていた感情を言語化することが出来た。
例えば医師と患者家族との価値観の対立が起こった時にどうするか?
その際に大切なことが、「いい塩梅の落としどころ」を見出すことになる。
それが患者中心の医療の技法の肝だと個人的には考えている。
当たり前のことなのだがそれが言語化されクリアになると、実際の診療もクリアになってくる印象がある。
北海道家庭医療学センターのホームページにある患者中心の医療の技法の解説を引用する。
”科学的な診断・治療に加えて、病気を持った一人ひとりの患者が抱える諸々の事情を考慮した上で、それぞれにテーラーメイドの検査や治療の方針を立てて、医師と患者の双方が納得いく治療を展開する臨床技法が「患者中心の医療の方法」です。これは決して患者さんの望み通りの医療を無批判に提供するということではありません。「・・様」と患者さんをお客様扱いするだけの医療でもありません。医師と患者の関係で議論を重ね共同作業で医療を作り上げていくというイメージが近いかもしれません。”
患者中心の医療の方法は、患者に特別な地位を与えるというものではないと僕は感じてしまう。
47章で岩田先生はこう指摘する。
「ジェネラリストといっても医療のスペシャリストだろ?」
僕はこの言説には全面的に賛成する。
ジェネラリストと言っても一人の医者に過ぎない。
そしてそれは、他の分野の方から見れば医療の「スペシャリスト」に他ならないのだ。
よってジェネラリストと名乗るのであれば必然的に医療以外の分野への造詣が深くなる必然性を感じる。
岩田先生が文学、哲学、語学、果ては漫画からワインまで様々な分野の造詣が深くかつ感染症診療のスペシャリストであることは、まさに真の「ジェネラリスト」であると呼んで差し支えないのだろう。
そして岩田先生の言説はファインシャルプランナーへの言及に続く。
ファイナンシャルプランナーはクライアントに寄り添っていて決して押し付けない。そして価値観にもとづいたテクニカルなサポートをする。しかしファイナンシャルプランナーが出来るのは「お金とその周辺」だけでありスペシャリストであると言える。
ジェネラリストの矜持だけでなくスペシャリストとしての自覚もあれば、ジェネラリストとしてもっと自由になれると続く。
僕はこの言説に非常に感銘を受けた。目から鱗が落ちる思いだ。
ジェネラリストと言っても一般的な価値観から言えば、医療のスペシャリストではないか。
一方で、思う。
本当に素晴らしいジェネラリストはやはりスペシャリストである自分自身に自覚的であり、一流のファイナンシャルプランナーのようであるのではないかと。
一流の家庭医は患者に寄り添っていて決して押し付けない。そして価値観にもとづいたテクニカルなサポートをする。しかし家庭医が出来るのは「医療とその周辺」だけでありスペシャリストであると言える。
そう言い換えても全く違和感がないし、実際にそうであると思う。
おそらく、患者中心の医療の方法そのものが悪いのではない。
患者中心の医療の方法ですら「方便」であり、一流の家庭医はその理論に捉われることなく自由無碍の境地にいるのだと直感的に思う。
岩田先生の御指摘の通り、家庭医療学のフレームワークや、家庭医と言う立場に捉われすぎること自体が問題なのではないだろうか。
例えば、青木眞先生の感染症診療の原則は、感染症科医なら誰でも知っているだろう。
青木先生は感染症診療を以下の4つの原則に分類する。
・臓器/解剖 
・原因微生物 (非感染性?) 
感染症治療薬 
感染症の趨勢・治療効果の判定
この原則は臨床感染症を学ぶ上での基本中の基本であり、初期研修医は全員知っておくべき必須の事項と考えている。
この原則を知らずして感染症診療をすることは不可能であるとさえ言えるかもしれない。
しかし、この原則をあまりにも神格化してそこから逸脱することを否定するとしたら、患者中心の医療の方法と同じ誤謬になるのではないかと思う。
方法や原則そのものではなく、それに捉われすぎる姿勢こそが問題なのではないかと感じる。
その意味で、ジェネラリストという立場に捉われすぎることは決して良くないのだ。
ジェネラリストだから、かくあるべしというのが行き過ぎると原理主義になる危険性を内包しているのだ。
ひいては、同じジェネラリストでありながら宗教論争のような不毛な争いの原因になるのかもしれない。
ジェネシャリストは、その解毒薬として有効なのかもしれない。
話は変わるが家庭医療学はコンピューターにおけるOSのようなものだと思う。
特に全人的な評価や介入が必要な分野で有効な基本OSであるというのが僕の解釈だ。
例えば、BPSモデル。
生物、心理、社会の3つに分けるだけのシンプルなフレームワークだが奥が深い。
実は、老年医学、緩和ケア、臨床倫理、訪問診療、リハビリなどの領域は全てBPSモデルの応用編として捉えることも可能である。
あくまで個人的な実感であるが、BPSを深めることで、これらの分野の理解が格段に深まった。
そして、僕は誤嚥性肺炎に関してはスペシャリストになりつつあるのかもしれない。
実際に、いろんなところで講演をさせて頂いているし本も出版する予定なので、一般的な定義からすればそうなのかもしれない。もちろん、まだ知らないことも多いのだが。。
何故、誤嚥性肺炎なのか?
誤嚥性肺炎を何百例と診てきた経験と、診ざるおえない必然性はもちろん大きい。
もうひとつは、総合内科のベースに加え、BPSモデルで広げたベースラインに付け加える形で、リハビリ、栄養、臨床倫理、緩和ケア、老年医学をそれぞれ深めることが出来たことが大きい。
つまり、幅を広げつつさらに深めることも同時に行ったからこそ見えてきた風景かもしれない。
またそれぞれの領域のスペシャリストからの影響も相当に大きい。
例えば、リハビリ栄養に関しては若林先生の講演をお聞きしたのが大きかったし、リハビリ自体は若手のリハビリ医の先生と一緒に勉強会をする中で理解を深めた。
老年医学のスペシャリストの信州大学の関口先生の講演を聞いたことも大きかった。
緩和ケアに関しては飯塚病院の緩和ケア科の柏木先生と岡村先生の影響も大きい。
これらの一流のスペシャリストの深みを講演などで感じることで、それらの分野を深めることが出来たことが誤嚥性肺炎診療をより豊かにすることが出来たように感じる。
しかし、スペシャリストにはかなわない深みがあることも、同時に感じることが出来た。
広げることと深めることは矛盾しないのである。
それこそがジェネシャリストの本質ではないか。
実際にジェネラリストであっても環境によって求められる診療の内容が異なる。
そして尾藤先生のようなジェネラリストであっても院内では「倫理コンサルタント」などのスペシャリストとして振る舞うこともまた矛盾しないのである。
どの内容を深めるかは尾藤先生が御指摘の通り「環境に求められていることに答えようとすること」、「自らが好きで得意であること」がバランスよく結合した分野になるのだと思う。
そして深めることは、その分野の資格を取ることとは同意義ではない。
スペシャリストはジェネラルであることを意識して、ジェネラリストもスペシャリストであることを意識する。
すると人によってジェネラルよりかスペシャリストよりかというグラデーションはあるものの、スペシャリストとジェネラリストという対立構造さえも無意味になりジェネシャリストが現前するのかもしれない。
確かに、そうなれば日本はより良くなる気がする。
本書はジェネラリストとスペシャリストの、これからの方向性や立ち位置を考えるうえで、示唆に富んだ素晴らしい本だ。
 

 
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